2008年1月 3日 (木) それを共同作品と捉えるのなら

2021年9月6日

漫才を何年か続けてみて最近思ったこと。

音楽や小説と共にクリエイティブな作業ではあるのだけど、漫才はまた少し異質な位置にあると思う。

完成した作品をオーディエンスに評価してもらって次の作品に反映させ成長していくのではなく、漫才はお客さんと一緒に一から作るものなのだという事。

「今さら何を青クサイ事言ってんだ」という話なんだけど、最近本当に強く思ったのだ。

大晦日に漫才出番があって、そこで新ネタを2本おろした。

梶原がネタを頭に入れて来なかったので少しイラッとした僕の表情を読み取った奴は、すかさずもの凄い熱量のネタ合わせを挑んできた。

それでもプラマイゼロ、むしろマイだ(これ言いたかっただけです、すみません)

いやいや、大晦日にこれだけのネタ合わせができるのはありがたい。

早くに劇場に入って5時間くらいネタを合わせて舞台にかける。

ネタはウケたりスベったり、スベッたところを切って別のボケを入れて最稽古の後に再び舞台にかける。またそこでもウケたりスベったり。

そして僕は家に持ち帰って再び考える。

僕が考えて、相方の判断を受けて、お客さんがジャッジをする。この三角形で漫才というものは出来上がっていくわけだ。

あたりまえだけど、お客さん無しではいいネタなんか作れない。

お客さんへの感謝の気持ちと同時に思うのは、劇場という環境がある吉本興業の強さ。

そう思うと他事務所の芸人さんは本当にスゴイ。

三角形の一角の判断が吉本の芸人さんに比べ少ない中、それでも戦っているのだもの。

そして冒頭で書いた音楽や小説などの作品を作る人もスゴイ。

最後まで自分で作り上げたものを評価されるそれは男前だ。

M-1の時のネタも何回も何回も舞台でかけて、そこでお客さんの判断をもらって切ったり貼ったりして出来たもの。最初からアレを書けたワケではない。

その言葉がすごくクサイ言葉だからあまり言いたくないのだけど他の言葉も見当たらないので・・・とかくネタ作りというのはお客さんとの共同作業だと思うんだ。

漫才というものは相方とお客さんと僕の共同作品。

作品と位置づけされているモノで、これほどオーディエンスとの共同性が強いものも珍しいのでは?(共同性なんて言葉あるのか?まぁ、いいか)

漫才というものを共同作品と捉えて、そしてソレをより優れたモノにしようと思うのなら、答えは一つ。

誰よりも舞台に立つという結論に達しました。

2008年1月

Posted by nsnkouron